Perfumeファンが見たインポッシブル東京オリンピック

とあるPerfumeファンの記録と、淡い期待と、それが霧散したやり場のない気持ちと、抱える矛盾を、ここに吐き出す。

 

2014年5月19日 SAYONARA国立競技場
マンウィズ、セカオワPerfumeラルクが出演した旧国立競技場ラストライブ。
Perfumeをはじめて生で見る。
感激。
いつの日か、生まれ変わった国立競技場のステージにPerfumeが立つことはあるだろうか。

2016年8月21日 リオデジャネイロオリンピックフラッグハンドオーバーセレモニー
総合演出 : MIKIKO
AR演出 : ライゾマティクス
音楽 : 中田ヤスタカ

チームPerfume総出の演出に興奮する。

2020年2月1日-2日
Perfumeドームツアー@大阪ドーム参戦。
2日目、国際国立美術館インポッシブルアーキテクチャー展』に足を運ぶ。
この展覧会は、ほぼ空想上の絵空事のような空想のものから、社会的な理由で建築にいたらなかったものまで様々な建築に焦点をあてたものである。

展示の最後は、ザハ・ハディド案の新国立競技場。
ザハ案の模型の横に陳列していたのはハンコの押された承認書類、百科事典のように分厚い電気設備や給排水設備の設計図書…
その解説には「今回の展示で唯一、実現可能だったはず」「安倍総理国際公約を反故したアンビルド」の文字。
ザハ案の実現に尽力した方たちの怨念と展示者の批評性が渦巻く印象的な展示だった。

2020年2月25日
Perfumeドームツアー@東京ドーム 1日目。
東京ドームでPerfumeのライブに参加するのは初めてだった。
広い。
ディレイがすごい。
このディレイに「東京ドームでPerfumeのライブに参加しているッッッ!」と感じる。

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2020年2月26日
Perfumeドームツアー千秋楽。
昼過ぎ、安倍総理(当時)が大規模イベント自粛要請を出す。
15時。
東京ドームに向けて出発する直前の、中止。

このドームツアーは結成20周年・デビュー15周年を祝した特別なツアーだったのに、その千秋楽が中止になってしまった。
悲しい。
いつの日かまたPerfumeに会いにいくと心に誓う。

それにしても、Perfumeのデビュー記念日は9月21日なのに、この祝祭をなぜ2月に開催したのだろう。
その答えは、1年半後に判明する。

2021年3月
佐々木宏、森喜朗、高田佳夫らによりMIKIKO先生がオリンピック開会式の演出から排除されていたことを知る。
その経緯がザハ・ハディドと重なる。

2021年7月28日
MIKIKO案ではPerfumeが出演予定だったことを知る。

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いま、矛盾したふたつの感情で揺れている。
ひとつは、PerfumeMIKIKO先生が体制側に取り込まれず、あの醜悪なオリンピックに関わらずに済んで良かったという思い。
もうひとつは、自分がこの世でいちばんカッコイイと思っているものが、最高の舞台で輝く瞬間を、この目に焼きつけたかったという思い。 

ぼくは3月以降、ゴリゴリのオリンピック・パラリンピック中止派である。
でもMIKIKO先生が描くNEO TOKYOは見たかった。
Perfumeは5万人動員のライブを3時間前に中止にしたのだから、無観客のオリンピックをいまから中止することなんて造作もないと思っている。
でも8月のライブには行きたい。
これ以上ライブがインポッシブルになるのは嫌だ。
もうチケットもとった。
公益性が高く税金で開催するにも関わらず、陽性者の隔離すらままならない、ボランティアのPCR検査実績すら把握していないオリパラと、その他の商業イベントでは、質的にも量的にも性質が違う。
この主張も矛盾だろうか…

 

2021年8月15日
Perfume 1年半ぶりのライブに参戦予定

震災のときぼくの身に起きたこと 2011.03.15~

まずは引越し業者を探す。

大手は全滅。

ひとつだけ、仙台の名前も聞いたことのない業者がOKしてくれた。

ただ、荷物は出すだけ出して、いつ届くかはわからないと言われた。

どうせ会社の独身寮なので、管理人さんに鍵開けて勝手に入れてもらえばそれでいい。

ふたつ返事でお願いした。

けっきょく荷物は4月の2週目に届いた。

 

実家には2週間近くいただろうか。

秋田にいても余震は頻繁に感じて地震酔いが酷かった。

テレビを見ても震災の話ばかりで鬱々としていた。

いいとも、SMAP×SMAP、Mステが放送再開したときは少し救われた。

 

3月28日に仙台に戻る。

ガスは復旧していなかった。

大急ぎで引越しの準備。

 

3月30日。

引越し。

上京。

夜行バスまで時間があるので、はじめてヒトカラをして時間を潰した。

 

4月1日。

入社式。

ここで卒業証書のコピーを出すのが本来だが、当然そんなものは持っていない。

卒業証書は4月下旬にようやく郵送された。

 

 

生活が激変するタイミングで震災があり、とにかく大変だった。

明日死ぬかもしれないのに、仕事なんかして何になるんだろう?と思うこともある。

未だに震災の映像は直視できない。

毎年2月頃には冬鬱っぽくなる。

 

とりあえず当時の記憶を整理し、10年目の節目としたい。

 

 

 

震災のときぼくの身に起きたこと 2011.03.14

山形に行くため高速バスの待合所に行く。

途中炊き出しが行われていて焼肉弁当が売っている。

移動中に何かあったときに備えてとりあえずの食料を確保する。

 

街中に緊急車両のサイレンがけたたましく響いている。

兵庫県と書かれた救急車。

和歌山県と書かれた消防車。

全国各地から応援の車両がここに集まっている。

自分が未曾有の災害の真っ只中にいることを改めて実感する。

 

バスは予定どおり運行し山形市に着いた。

次は酒田市行きの高速バスだ。

チケットを買う人の行列が凄い。

なんとかチケットを買い、さっきの焼肉弁当を食べて時間を潰す。

 

酒田市行きのバスは補助席も動員してギュウギュウ詰め。

ようやく酒田に着いた頃にはすっかり夜になっていた。

日本海に面した酒田駅前はまるで震災なんてなかったかのように穏やかだった。

駅前で適当にお店を探しラーメンを食べる。

 

秋田行きの電車に乗る。

向かいの席に韓国人が4人乗っている。

秋田からは韓国への直行便がある。

日本を脱出するのかもしれない。

 

電車に揺られること2時間か3時間して秋田駅に着き、タクシーで家に向かう。

23時過ぎ。

仙台を出発して12時間以上。

ようやくぼくは実家に帰った。

 

←2011.03.13

震災のときぼくの身に起きたこと 2011.03.13

この日は晴れて割と暖かかった。

夕方、避難所で日本語の話せない留学生に話しかけられる。

名簿に名前を書いたら泊まれるよと伝える。

 

17時頃、電気が復活する。

50時間ぶりだ。

薄暗い中に灯った明かりに、少しホッとする。

 

大学の端っこの方にある小さな学食で、カレーが振る舞われる。

とは言ってもそんなに数はないので、周りに呼びかけるでもなく、たまたまその場にいた人だけがありつけた。

自分がどうしてそこにいたのか覚えてないが、とにかくラッキーだった。

なにせ3月11日の昼食以来、久しぶりの温かい食事。

いつもは不味いと感じていた260円のカレーが、人生で食べた食事でいちばん美味しかった。

 

夜、パソコンを開く。

余震に酔ってほとほと参っていたぼくは、実家のある秋田に帰る方法を調べる。

新幹線は当然ダメ。

高速バスもアウト。

太平洋側ルートは総崩れだ。

 

何かいい方法はないか…

 

このとき役に立ったのがTwitterだ。

当時はスマホなんてないしTwitterのアカウントももっていなかった。

ウェブ版のTwitterで仙台からの脱出方法を検索する。

どうやら仙台から山形市までは高速バスが動いてるらしい。

さらに、山形市から酒田市までも高速バスで行けるようだ。

日本海側に出てしまえば電車があるので秋田には帰れるだろう。

Twitterの情報なんて果たして信じられるのか。

ただ、運行時刻を調べると、なんとか1日で帰れそうだ。

 

「よし、秋田に帰ろう」

 

←2011.03.12

 

 

震災のときぼくの身に起きたこと 2011.03.12

朝になり家に戻る。

水道水が復活している。

助かった。

冷たい水で顔を洗う。

きのうと違ってウンコにも困らない。

夜はあまり眠れなかったので仮眠をとる。

 

この日の行動はあまり覚えていないが、家と大学と街を行き来した。

途中、大学で男性に話しかけられる。

なんでも娘さんの安否を確認しに山形から車で来たらしい。

娘さんの専攻がある場所と、学食が避難所として開放されていることを伝える。無事に会えただろうか。

あとたまたま会った後輩にお〜いお茶2Lを貰う。ありがとう。

 

外が暗くなってきた。

心細いのでまた学食で一夜を明かすことにする。

 

19時頃、たまたま親と電話がつながる。

とりあえずケガもなく無事なこと、学食である程度の食事が取れていることを告げる。

 

夜は学食に用意されたテレビで福島原発の状況をチェックする。

昨日から余震や緊急地震速報が頻発し身も心も休まらず、ある意味ハイになってテレビを見続けていた。

 

←2011.03.11  2011.03.13→

震災のときぼくの身に起きたこと 2011.03.11

2011年3月11日。

 

当時ぼくは4年間の大学生活を終え卒業を目前に控えた仙台市内に住む大学生だった。

既に卒論を書き終え、就職も決まり、4月から会社の独身寮に入る予定だった。

ただ、配属先がまだ発表されず、どこの独身寮に入るかも決まっていなかった。

その日はなんとなく大学に行き、なんとなく引越し業者のあてをつけたり、なんとなく新生活の下調べをしたり、グダグダとネットサーフィンをしていた。

 

14時46分

 

地震だ。

 

2日前にも大きな地震があった。

当時は宮城県沖地震が近いうちにくると警告されていた頃だ。

少し身構える。

やや揺れが強いので机の目の前の本棚を抑える。

次の瞬間、ケータイの緊急地震速報が鳴る。

(今から思えば本当にヤバい地震のときは緊急地震速報よりも先に揺れが来るわけだ)

揺れはどんどん大きくなる。

 

ズゴゴゴゴゴゴゴゴゴ………

 

ヤバい。

机の下に隠れる。

ところが机自体が動いてどこかに行ってしまう。

脚を掴んで逃がさないようにする。

それでも落ちてきた物が上からではなく横から飛んできて身体に当たる。

向かいの席にはイスラム圏からの留学生がいた。

何事かブツブツと呟いている。

きっとアッラーにお祈りしてるのだろう。

 

何分経ったか。

とにかく長く、激しい揺れが収まった。

あちこちに物が散乱している。足の踏み場もないとはこのことだ。

大学では宮城県沖地震に備えて避難訓練が徹底されていたので、すぐに避難場所として指定された駐車場に向かう。

廊下の壁に大きなヒビが入っている。

自動ドアは開かない。手でこじ開ける。

外壁が一部剥がれた渡り廊下のしたを走り抜けて駐車場に出る。

既に大勢の学生や教職員が集まっている。

友人と会ってお互いの無事を確認する。

その横で車が余震で揺れいている。

誰かのワンセグ震度7だと知る。

 

一旦家に帰る。

よりによってこんな日に就職先から配属先のお知らせが届いている。

部屋に入るとブラウン管テレビが転げ落ちている。

ライフラインは当然全滅。

仕方ないのでまた大学に戻る。

 

学食が避難所として解放される。

ぼくが住んでいたアパートはなかなかに古く余震が怖かった。

1人では心細いのもあって学食で一夜を明かすことにする。

周りには頭に包帯を巻いた人もいた。

一緒になった友人や先輩と話して気を紛らわせる。

だれが準備したか知らないが発電機が用意されテレビも見れた。

ありがたいことに情報の取得とケータイの充電に困らなくなった。

夕食は学食の余り物をいただいた。

一晩中、余震と緊急地震速報のたびに緊張が走り眠れない。

 

外に出ると綺麗な星空が広がっていた。

 

→2011.03.12

 

昭和93年12月31日のポリリズム

ポリリズム(英: polyrhythm)は、楽曲中、または演奏中に、複数の異なる拍子が同時進行で用いられている音楽の状態の事である。ポリリズムのポリは「複数の」なので「複数のリズム」を意味する[1]。

ポリリズム - Wikipedia

Perfume 7th Tour 2018 「FUTURE POP」 カウントダウン公演

20:45

Perfume登場。
いきなりお客さんの前で紅白リハーサル。
紅白では『Future Pop』とある曲とのメドレーと事前に報じられていた。

ポリリズムか?
チョコレイト・ディスコか?

 

聴こえてきたのは『エレクト・ロワールド』。

 

まさか。


エレワはPerfumeブレイク前の2006年にリリースされオリコン最高77位の曲。
でもライブでは毎回必ず歌って盛り上がる、Perfumeにとってもファンにとっても大切な曲。
それを12年の時を経て紅白で歌う。

 

まさか。

 


既に興奮を抑えきれない。

リハ後、お客さんの声援に本番前から泣くあ~ちゃんw

それみてもらい泣きしそうになる僕。

 

21:00

DA PUMP 『U.S.A』。
会場から自然と沸き起こる手拍子。
イイねダンス👍に加え「FuFu~♪」の掛け声。

いきものがかり 『じょいふる』。
Perfumeタオルを振り回す。

超楽しい。

 

21:15

紅白の中継直前。
Perfume(というかNHK)から「NHKさんは盛り上がってる様子が欲しいみたい」と注文。

ああ、そうか。

今こそPerfume元気玉を届けるときだ。

 

21:30

紅白本番。

エレワの間奏。
あの掛け声は凄まじかった。
今まで感じたことのない一体感。
Perfume本人でもないのに、ただのファンなのに、感動した。

紅白に1/12000として参加できた。

少しでもPerfumeのチカラになれた。

Perfumeと年越しを共にしている。

 

23:40

Perfume自身11年ぶりのカウコン。

2018年の最後に選んだ曲はポリリズム

 

思わず「おぉっ」と声が漏れた。

 

よくわからないけど感動した。

 

11年前、Perfumeをブレイクに導いた曲。

Perfumeが初めて紅白で披露した曲。

僕がPerfumeを初めて知った曲。

 

第69回NHK紅白歌合戦

1月1日。

録画した紅白を見る。
サブちゃんの『まつり』で既にお腹いっぱい。
これ以降のアーティストがオマケにならないか?
なんて心配していたら、ユーミンで感動して泣く。
もうこれが大トリでいいくらいの満足感。
と思いきや星野源と米津玄師が時代を更新する。
さらにMISIAが『つつみ込むように…』を歌ったり、
石川さゆり布袋寅泰ベテランふたりが誰よりも挑戦的なパフォーマンス。

 

 

そしてサザン。

桑田佳祐ユーミンとの芸能史に残る掛け合い。

すげぇもん見た……

自分がPerfumeのライブで横浜にいたころ、4000万人は紅白を見ていた。

昭和と平成のポリリズム

ひとり元旦の夜に余韻に浸っていたが、ちょっと待って欲しい。
本当にこれでよかったのか。
平成最後の紅白の〆が、昭和の曲で終わる。

そんなときにちょうど年末に読んでいた『サブカルの想像力は資本主義を超えるか』を思い出した。

昭和三〇年代までは「昭和」が世界の前提だったのです。この日本でしか通じない「昭和」でイメージされていた時代までは、日本という国民国家がおおむね、生きる世界のすべてだった。自分が生きる世界というものを直感的にイメージするとき、国民国家が参照されていたわけです。  
しかしグローバルな世界を意識し始めた時には、もう日本のローカルな年号では、自分たちの時代を表現できなくなってくる。「一九八〇年代」という言い方をするしかなくなってくるのです。  

言われてみれば、平成10年代と言われてもどんな時代か思い出せない。
でも、90年代、00年代、10年代ならすぐにわかる。

そういえば僕の親は、「『平成15年』より『昭和78年』のほうがわかりやすい」なんて言っていた。
平成という時代は意識されなくなり、
昭和との境目はぼやけ、
昭和の延長線上に平成があった。

だから、
ムリヤリ“平成最後の紅白”と銘打つなら、
昭和もひっくるめて総括するのは当然だった。

 

平成30年の紅白歌合戦は、昭和93年の紅白歌合戦だった。

 

昭和と平成はポリリズムしていた。

 

2019年

新しい時代がはじまるなら、
Futrueの先陣を切るのがPerfumeだったら嬉しい。